舞台美術プランとか劇場スタッフとか、

かつては写真とかもしてきた、松本謙一郎のサイト。


今(2010年〜)はもっぱらツイッター( @thinkhand / ログ )で、ブログとしては更新してませんが。
最近は主にもろもろの告知とアーカイブ、ポータル的編集記事など。

2008年あたりは、割と色々書いてます。






























学生街の喫茶店

1500〜JBJJPの積み込み予定。午後から工房に行く。

だいたいの準備は出来ているが、持って行く工具・釘を選別したり、資材をまとめたり。
使い勝手よく、現場に合わせた釘・ビス類を素早くコンパクトに選別・整理出来る、システムあるいはオリジナルの釘箱がつくりたい。
自分の舞台美術プラン傾向として、作る装置が一様でなく、装飾的に金物をよく使う。
結果、ひとより多種多様な釘・ビス類を使い分けるため、持っている量も増える。
いつも煩雑なのだが、自分の性格ゆえ?必要なので仕方がない。


舞台監督山下氏も積み込み前に来て、仕掛け物を用意する。
時間どおりに帯瀬運送のトラックが来て、積み込み。
大きな物はあるが、物量としては少なくすぐに終る。

積み込み準備追いつかれ、釘・ビス類の整理選択待ちするも、トラックは予定どおりに出発。
作業最終日に浸け置きした刷毛類を洗い、掃除などして王子小劇場の勤務に向かう。

千秋楽(公演最終日)の劇団競泳水着「真剣恋愛」を観る。
広い客層に受け入れられるだろう、タイトルどおりの恋愛物。
普遍的ゆえクオリティを要求されるジャンルだと思うが、作演出・上野友之氏は若い才能ながらも、すでに安定していて上手い。
安易に恋愛物をやろうという劇団があるなら、まずこのレベルのライバルがいることを観ておいたほうがいい。
説得力のある、よい出演者を集めていると思うが、その魅力を引き出す上野氏得意の手腕も流石と思う。
これらも、大事な演出力の一つ。

不可解な簾、室内フローリングであろう床が貫板張りであること、その他ディテールと仕上がりの荒さに、舞台美術には惜しくも不満が残った。
作品全体から見れば些末なことではあるし、そんなことは気にせず楽しんで帰る観客のほうが圧倒的に多いと思うが、そこにこだわるのが舞台美術の職分のなので気になるものは仕方ない。

内容は、かわひ_さんの「休むに似たり」に、くわしく。
指摘にある、登場人物が日々立ち寄り行き交うコンビニの、ドラマに絡んでそれぞれの相談役になる店員は、確かに作劇上都合のいい人ではある。
世の多くの物語に登場人物の相談役になり、道を指し示す役割は登場するから、それ自体は問題ではない。
スター・ウォーズでいうところの、オビ・ワンやヨーダもそうである。
未読だが、その基本理論の引用をよく目にする「千の顔を持つ英雄」(ジョセフ・キャンベル・著)などに、その公式を引くのも容易いだろう。
上野氏がスタンダードな劇作をしっかり身につけているからこそ、発生した役だと思う。

それが、コンビニの店員であったということで、より都合よく感じられるのだろう。
コンビニの店員が客と仲良くなり、個人的な悩みに助言する、という状況はあり得るか?
厳密に可能性としてゼロではないだろうが、多くの観客にとって説得力が弱いと思う。
特に、この物語の場所として設定され、公演場所でもある首都圏などにおいては。

しかし、そのことの問題とするより、ひと昔前なら「喫茶店のマスター」がお決まりだったこの役どころが「コンビニの店員」になっていることの現代性に注目したい。

ひと昔前、60〜70年代に若者が集まる場所として隆盛した喫茶店、とくに地域密着型・個人経営の喫茶店は90年代以降激減しているという。
喫茶店を激減させて、若者のたまり場としてとって替わりつつあるのがコンビニである、という分析をバイト先の社長から聞いたのは90年ごろだったと思う。
ファーストフード店やファミレスも同じ役割を果たしただろう。
最近ではさらに、スターバックスやドトールといったチェーンのコーヒースタンドが、旧来の喫茶店に追い討ちをかけているようだ。

コンビニもそうであるが、チェーンのファーストフード店やコーヒースタンドの店員は、もちろん現実には喫茶店のマスター代わりに相談に乗ってくれることはないだろう。
それらの店員の多くは、この作品の終盤コンビニを辞めて去って行く登場人物と同様、あくまで一時的な従業員であり、何年経ってもそこにいてくれるということはない。

そう考えると、作劇上「喫茶店のマスター」な役割を「コンビニの店員」を果たすのは、非常に現在的で象徴的だ。

今や喫茶店は、物語(=過去)の中の記号になった。
ことに住居といっしょになっている喫茶店などは。
数年前になるが、そういう設定の舞台装置をオーダーされた仲間うちの相談に、そろって皆が答えたのはタッチの「南風」と、東演パラータ向かいの「邪宗門」(これはリアルに健在だが、非常に劇的なたたずまいの店だと思う)だった。

しかし、作劇上の「喫茶店のマスター」に「コンビニの店員」がとって替わるのはいいとしても、現実の社会的な「喫茶店のマスター」な役割はどうなるのだろう。
それは社会とか、個人の成長にも必要なものだと思うのだが。
自分にも「無限洞」なんかが思い出される。
早稲田あたりの学生街には、まだそんな喫茶店が生き残っているだろうか。
郊外の開発地域に移転した大学には、学生街もなく望むべくもないかもしれないが。